- 米村の歴史
- 米村と江戸料理
- 銀座・新橋の歴史
- 新橋花柳界
- 新橋演舞場と東をどり
米村の歴史
1929年 / 昭和4年
九段で「三楽」として開業。開店祝いに贈られた屏風に貼られた伊東深水の絵に「昭和4年1月」と書かれてある。米村の前身である「三楽」は武者小路実篤、林武画伯、宇野浩二や久保田万太郎ら小説家など、文人墨客、財界人にも愛される。初代女将の八重は、宇野浩二の小説「思ひ川」のモデルになっている。宇野浩二と親しい洋画家の鍋井克之は、各部屋の名を記した陶板や「実の成るもの」を描いた扁額など、調度の各所に愛着を感じさせる。
1949年 / 昭和24年
戦後、浜離宮の入り口付近に移り、川に面した見越の松に黒板塀という料亭らしい粋な造りで「米村」として生まれ変わる。
1961年 / 昭和36年
東京オリンピックの開催による高速道路整備の為、現在の銀座7丁目に移転。新橋料亭としていち早くビルへの建て替えを行い、カウンター席や地下のバーなど進取の気風を体現。
1983年 / 昭和58年
老朽化により再度建て替え、今の店構えに至る。
米村と江戸料理
「関西料理」「京料理」の看板ばかりが目につく東京の料理屋で、江戸料理、東京料理の看板を掲げている店はほとんどありません。料亭のお客様は、連日宴会続きである方が多いので、少しでも違った切り口で料理を楽しんで頂きたいと思い、個性を出すため、「江戸割烹」を掲げました。
江戸時代に、全国各地から派遣された留守居役の武士たちが、自藩の財政を有利に取り計らってもらおうと、幕府の役人をもてなす場として料亭を使うようになり、江戸の食文化は発展を遂げました。この食文化の良さを伝えていこうとの考えより、江戸後期に数多く出版された料理書の中から、江戸時代から伝わる料理に新しく解釈を加え、東京に集まってくる様々な各地の食材を用い、現代にアレンジした「新・江戸料理」を打ち出しました。
四季折々に変化する会席料理の中で、店の個性を心に刻んでもらうべく名物料理を求め考えられたのが、初代料理長考案の米村名物料理「鯛焼飯」です。締めの食事に出される「鯛焼飯」は、硬めに炊き上げた鯛飯を熱々の石の器に入れた焼き飯で、香ばしい香りともちもちした独特の食感は米村ならではの味となっております。
受け継がれる技と品質
東京・銀座で料亭を営むかたわら、二代目 藤野雅彦は現代に残る花街文化の活性化に努めました。全国の花街の料亭・芸妓衆でつくる日本料理文化振興協会の理事長として、芸妓派遣を通じた海外発信などに取り組み、農林水産省検討会の委員として、和食の国連教育科学文化機関(ユネスコ)の無形文化遺産登録にも尽力しました。
日本食文化、和食文化とは
「日本人は、毎日世界遺産を食べている」と言えるのかというと、そこにはある種の誤解が生じています。和食は「日本の料理」だけのことではなく、食が紡ぎ出す文化全体のこと。そして世界遺産として認定されたのは、懐石料理や寿司などのメニュー自体ではなく「和食」を中心にした日本の伝統的な文化が総体的に評価されたからです。
たとえば、限りある自然や命に感謝しつつ、素材の旬の味を引き出す調理法や、移ろいゆく季節の美しさを表現した盛り付け。またヘルシーな長寿食であり、自然環境にも優しいスローフードとも言える一汁三菜などの伝統的な献立、お正月にはおせち料理、春にはお花見弁当、祝いの席にはお赤飯など、年間行事と密接に、人と人とを結び、地域社会を築いてきたのが和食です。
グローバル化が進んだ現代日本の食卓にはインスタント食品やファーストフードが溢れ、孤食化が進み、家族や地域の団欒は減少しています。国の食料自給率は40%を切り、その多くが輸入食材という中で、地産地消の食材を探すことは難しくなってしまいました。世界では「和食」がブームにも関わらず、日本の食生活は西洋化し、伝統的な「和食」が消えつつある、その「和食」の価値を再確認して、未来へと継承していくこと、ユネスコが和食を世界遺産に登録した背景には、こうした消えゆく日本の食文化への警鐘と保護を促す思いがあります。
国内でさまざまな料理人や研究者がこうした思いを共有したことから始まった、和食の世界遺産登録、東京でその中心的な存在として尽力した故・藤野雅彦氏の想いが「総合芸術としての日本食文化」として米村には今も息づいています。京料理だけじゃない 東京にも料理文化がある
料亭や芸者というと京都が連想されますが、百万都市の江戸にも多くの料亭、花柳界がありました。昭和30年ごろの東京分布図を見ていただくと、多くの場所に存在したことが分かります。その名残が通りの地名やアーケードの名称に残っております。
当時は料亭も活況でした。八百善、百川など料理屋の番付表にありますように多くの有名店が東京に存在し、食は江戸といわれておりました。現在残っているのは王子の扇屋さんぐらいでしょうか。名物の玉子焼に行列が出来ています。
料亭文化の発展の時期はいつ頃かと申しますと、徳川吉宗の享保の改革で倹約政策が長く続き、田沼意次の時になりますと株仲間を公認し、積極的な経済活動を企てます。裕福な町人たちが増え新しい遊行の文化を形成します。利権に絡んだ社交も盛んになり、芸者が活躍するようになり、接待需要が増え、料理屋が成長します。
日本料理での饗応は料理と酒を出すところではなく、座敷の設え、花器、掛け軸、四季折々の器、さらに芸者衆による芸能もはいる場所でした。これは日本料理ならではの習慣と思います。個室の座敷に接待することが基本であり、客をもてなしてきた歴史であります。現在このような習慣を受け継いでいるのが幕末から明治、大正、昭和の初期までに完成された花柳界の会席料理になります。江戸の文化は花柳界や遊郭の文化によって支えられ贅を尽くした料理と芸能を伴った料理文化を形成していました。
米村は江戸後期に興った新橋花柳界に所属し、料理は江戸時代の料理書の中から現代風にアレンジした新江戸料理です。従って米村の料理は東京料理になります。江戸料理の壊滅と関西食い切り料理
江戸の料理文化の衰退には原因があります。関東大震災、東京大空襲により料亭、料理屋が壊滅します。そのあと、関西から多くの料理人がやってきて、関西割烹が広まります。武家料理の文化と受け継がれた技術の江戸料理は姿を消し、本膳料理から食い切り形式の関西割烹会席料理にとって変わりました。
大阪の食い切り料理のはじまりは、大阪は商業都市で大きな商家のご主人は多くの従業員と一緒に食事を食べるのが習慣でしたが、ご主人や上位の従業員は、食べたふりをして行きつけの料理屋へ行って自分の食べたいものを食べるようになった事がきっかけでこのようなスタイルが主流になっていきました。
江戸の本膳料理と食い切り形式の関西割烹会席料理の違いは出し方が大きな特徴でありますが、料理の内容の違いはどのような違いがあったのでしょうか。
江戸料理の特徴は武家料理を踏襲していることで、武士は剣術の稽古をして汗をかくので塩分の強い料理が多く、きんとんや伊達巻のなどの甘い料理が多いのも特徴です。
また、江戸料理はお土産付きというのも特徴です。江戸時代には各藩の臣下の中で家族と共に江戸に住み藩邸に勤務した者も多く、家族は江戸料理のお土産を楽しみにしていました。「江戸は3度美味しい」と言われており、持ち帰った日は奥様が食べ、翌朝には子供たちが食べるという楽しみがありました。
本膳料理の中で鯛の焼物を載せた焼物膳と最後の膳を「台引」といい箸をつけずにお膳を引き、折詰にしました。結婚式でよく焼鯛などの料理を詰めた折詰が渡されていましたが、これこそ焼物膳と台引の名残りです。京料理は残っているのに、なぜ江戸料理は残らなかったのか
八百善の10代目の方はインタビューで江戸料理の衰退に関して3つの原因を言っていました。
"1つ目の原因は、メニューが多いからでしょう。関西は献立が少ないのです。江戸料理は献立が多すぎる。2つ目は 江戸っ子の気質でしょう。『俺の仕事が分からなければ、それならそれでいい。』と職人気質が強い。3つ目は「松川しんじょ」という料理があります。鯛を3枚におろして、皮を引いて貼る。身は骨をとって、荒だたきして、すり鉢に入れて摺る。そして裏ごしして、ペーストにする。鯛の形に組んで、皮をはって、蒸して、切って、御椀として出す。30人板前が必要になり、半日かかりますよ。でもこれが八百善の料理です。見えないところに手間暇をかけて出す料理が多い。"
江戸の料理人は10段階の役職があり「料理人の十職」といいます。下洗い、中洗い、立ち洗い、立ち回り、盛り付け、焼き方、脇鍋、煮方、脇板、板前。10歳ころから親方の下での修行に入り、10年くらいは小遣いもらうくらいで働きます。現在とは労働環境も、資格も大きく異なります。親方につく徒弟制度も昭和33年の調理師法が制定され、古い体質の体制が無くなりました。今の子は Youtube で料理も覚えられます。本格的な江戸料理には多くの献立により、料理の品数が多く、大勢の板前が必要であったこと、たくさんの料理がのったお膳と共にお膳を運ぶ仲居さん、お膳を並べる広いお座敷必要でした。大変武士らしい豪勢な料理文化でしたが、継続が難しいことが分かります。有名な八百善さんのお茶漬け1両二分の現在価値は20万です。大金を支払えるパトロンの存在が必要不可欠であったと言えます。料亭は東京だけの言葉
昭和60年頃まで東京都には風俗営業条例があり、料亭は「芸妓を入れて接待をする店」となり料理店とは分かれていました。普通の料理店、割烹というのは芸妓は入っていけない店です。
芸妓の入るところは法律上決められていました。ところが今の法律では接待をするかしないかによって風営法の有無が決まります。芸妓が入らない割烹店の場合は仲居さんが接待をする。両方とも法律的には風俗営業になり、店の中で芸妓さん、仲居さん、コンパニオン等、何らかの女性がいてお酌をしたり、接待をする営業は警察署の許可が必要になります。
コロナ禍においてTVでも「接待を伴う店」についての営業制限がされていましたが、このような許可の事になります。法律用語での「接待」とは会社の接待とは異なる言葉の使い方で非常にわかりにくいのではないかと感じた方が多かったのではと思います。今はその条例はございませんので法律的にはだれが料亭を名乗っていても何の規制もありません。
料亭と名乗っても芸者の入らない所はたくさんあります。接待をする店は風営法の許可を得るのみ、銀座で料亭を検索するとたくさん出てきます。つまり、一般的には高級な日本料理店の事と認識している方が大多数ではないかと思います。
ちなみに東京で料亭という言葉ができるのは戦後になります。現在の東京六花街は新橋、赤坂、浅草、芳町、神楽坂、向島となります。花街とは芸者が入るお店がある街の事であり、東京の芸者が入る店は「お出先」と呼ばれ、各花街の組合に所属する店です。それ以外の店は基本的に芸者を呼ぶことはできません。ホテルや観光機関の企画や通常の店には遠出となり例外もあります。
花柳界は三業地と言われ、仕出しの料理屋、場所貸しの待合、芸者を派遣する置屋の3つのうち、東京は待合に料理人を置くことが主流になり、料亭と言われるようになりました。
また、以前は「六花街と向島さん」と言われていましたが、柳橋が無くなり、向島さんを入れて六花街になっております。つまり柳橋という花街に料亭がなくなると江戸時代から200年間続いた花街の歴史もなくなります。芸者は花街ごとにお出先の料亭が明確に決まっており、東京では料亭と芸者は運命共同体であるということです。
銀座・新橋の歴史
銀座の成り立ち
今から約400年前まで、このあたりは海面の下でした。ちょうど日比谷交差点付近が日比谷入江という浅い入り江で、この入江沿いに江戸前島と呼ばれる平野が広がっていました。徳川家康が関ヶ原の合戦で勝利をおさめ、江戸の町づくりが本格的になり、神田にありましたなだらかな神田山を崩して埋め立てられ出来たのが、いまの銀座・新橋・日本橋です。
さらに、江戸の町の形成には大量の建築資材が必要となり、地方から移り住む商人や職人の数も段々と増えて行き、このあたりは、舟で運ばれてきた木材を製材する職人がまとまって住んでおりました。木材を製材するという意味の木挽きという言葉から木挽き職人がまとまって住み、木挽町という地名になりました。のちに銀座という地名になりました。
新橋の由来
新橋というと新橋駅前のSL広場とサラリーマンのインタビューを想像する方が多く、銀座や新橋演舞場とは離れています。実は新橋駅は移転しており、1872年に新橋-横浜間に開通した新橋停車場のあった場所は今の汐留です。今も旧新橋停車場の駅舎として再現されており、東京駅が完成すると新たに新橋駅を烏森に造り、駅名を「烏森駅」としましたが、後に新橋駅と駅名を変えて現在に至ります。
新橋の由来は、新橋という橋が銀座8丁目に在ったことから、地名と花街に名を残しています。高速道路がかかっているところは、昔は汐留川が流れており、この一帯は4隅を川で囲まれ船宿も沢山あった風情のある場所でした。現在は、新橋花柳界と申しますと東銀座から築地の一帯の事を指します。
新橋花柳界
新橋にお茶屋や待合が出来始めたのは安政の初期の事です。この頃はお茶屋や待合よりも船宿の方が盛んで、十数軒あったといわれています。
新橋芸者の始まりは安政4年、1857年頃といわれています。各藩の外交官である御留守居役達が木挽町界隈で幕府の要職や側近達をもてなしていましたが、女中さんだけでは盛り上がらない。三味線の一つも弾く者がいないかという事で、何処からともなく「御師匠さん」なる者が今の銀座8丁目の資生堂の裏あたりです。
金春家が拝領した御屋敷でしたが、後に麹町に移り跡地には芸者が集まっていました。今でも金春湯という銭湯があり、「金春通り」と名前が残っています。お茶屋の招きに応じて三味線を弾けば御酌もする若い御師匠さんの中には踊りの一手もご覧にいれようという人達が出てきました。すぐに大変人気がでて、「御師匠さん」達は日増しに御座敷は忙しくなる、それに連れて頭数も増加してきましたが、「御師匠さん」という肩書であるため、御座敷で稼ぐ事は当時は違反であり、お目こぼしによって稼いでいました。町方にしても問題があっても客筋が諸藩の御留守居役や公儀の御役人のため自然黙認ということになっておりました。
徳川幕府の諸藩に対する基本理念はいかさず殺さずであり、戦国大名に大きな負担を強いていました。最も大きな負担が土木工事であり、莫大な金がかかります。現代では公共事業を請け負うと国から予算が来ますが、全額負担ですので、役がまわってこないように対策をします。その場合は昔から賄賂であり、お留守居役の接待が活況します。接待だけではなく、攘夷か開国化の情報収集も必要になり、お留守居役は大活躍します。このような状況の中から大変勇敢なのが現れ、名を常盤津文字和佐といい、安政4年のある日時の老中大田備中守へ「酌取御免」を願い出ました。これが新橋芸者のはじまりで、金春辺りに住んでいた女師匠たちが新橋芸者の原点になります。
幕末期に各藩の御留守居役達の公儀や他の藩との折衝、社交の場として新橋花街が多用され、後に明治政府を樹立する薩長土肥の志士達の多くが新橋の馴染になりました。当時まだ若くて、西国出で無粋と見られていた彼らは、江戸文化の粋と呼ばれた当時1番であった柳ばしの花街では歓迎されなかった為、新興の新橋での宴席を好んだそうです。彼らをもてなす政財界の面々が新橋の料理屋・待合を使うようになったので、新橋は柳橋と肩を並べるようになり新柳ニ橋と呼ばれるようになりました。
新橋演舞場と東をどり
「新橋の芸妓は岐阜提灯」こうからかわれたのは、明治時代に名古屋に、井上馨が新橋芸妓30人を引き連れて行った時のことでした。いざ他の地区の芸妓と芸をさせてみると全く振るわず。見た目は綺麗で吊っておくには良いが芸無しという意味で「岐阜提灯」といわれてしまいました。
そこで、新ばし芸者は汚名を挽回すべく一流の師匠を迎えて踊りと邦楽、技芸を鑽き、芸の新橋と云われるようにまでなりました。こうなると、京都や大阪には立派な演舞場や歌舞練場があるのに、東京にないというのは残念だという事で、新橋芸者の技芸向上を披露する場として3階建ての立派な劇場が建てられたのが大正14年に完成した新橋演舞場です。第一回の東をどりはその「こけら落とし」公演として行いました。
90回の記念公演から年ごとに色を持つため、一人の家元が全体を構成することになりました。新橋演舞場は様々な仕掛けができます。是非、立体的な演出をお楽しみください。
花柳界、日本舞踊と言いますと、高尚なように感じますが、東をどりは門戸を開いたお座敷遊びの文化です。堅苦しいことは抜きに、料亭の酒や肴をお楽しみください。そして艶やかな芸者衆の踊り、粋な遊びで最後までゆっくりとお楽しみいただければ幸いです。